南山大学管弦楽団は、1950(昭和25年) 年に故山本直忠教授(直純氏の御尊父)をはじめとする優れた先生方の御指導のもとに結成されて以来、今年で64年を迎えた。管弦楽団は、音楽部(管弦楽団の他に合唱団、レコード・ライブラリーが同時に結成された。)内に発足し、この地方で最も早く学生オーケストラとしての活動を始めた。
1950年に南山大学に着任された山本直忠教授は、以後15年間、指揮法、合唱法、作曲法、管弦楽合奏法、音楽鑑賞法などの講義を一般教養科目の選択コースとして担当される一方、課外活動の音楽部を熱心に指導して下さった。
また、管楽器奏法・オルガン奏法の講義を担当された故チャプリッキ神父は、53年頃、ピアノをはじめ多くの楽器、スコア、LPレコードをアメリカからとりよせて下さり、音楽活動を行なうには、とても恵まれた環境であった。
また初代学長パッヘ神父は学内に「音楽学部」の設置を一部は真剣に考えられたとのことであった。このような中で、我が管弦楽団は、着実に発展していった。
音楽部においては、管弦楽団、吹奏楽団、室内楽団、男声・女声コーラス、鑑賞グループ、ピアノグループがこれに属したが、現在は音楽部の名称はなくなり、これを母体とするメイルクワイヤー (1953年独立)、女声コーラス (63年独立)、吹奏楽団 (69年独立)、管弦楽団(吹奏楽団独立と同時に自然に独立)は、各自独立して活動を行なっている。
I. 1950~54年
発足当時の管弦楽団は、部員数も少なく、オーケストラとしては、小編成のものであったが、次第に部員も増え、当時南山大学で教鞭をとっていた宮崎直一先生(Vn)、小津恒子先生(PF)も参加され、アンサンプルの熱心な研究がなされた。
そして、52年には、CBCのラジオで我が団の演奏するブラームス「ハンガリア舞曲第5番」、ビゼー「アルルの女」、ベートーヴェン「自然における神の栄光」、チャイコフスキー「くるみ割り人形」から、などが放送された。また一部の部員は、大学講堂(現南山高校男子部講堂)で催されたNHK名古屋放送管弦楽団(山本教授による指揮。また、この年山本教授作曲「受難」全曲が、この楽団により演奏された。)による「食後の音楽」の公開中継放送や、名古屋市公会堂で催されたオール名古屋シンフォニー・オーケストラ(山本直忠・直純両氏指揮一当時18歳の直純氏は、リスト交響詩“前奏曲(レ・プレリュード)”を指揮。)の演奏等に参加し経験を積んだ。
学内では、50年にL.モーツァルト「おもちゃの交響曲」、51年にシューベルト「軍隊行進曲」、ハイドン交響曲「太鼓連打」、52年にシューベルト 「未完成交響曲」、53年にはバッハ「ブランデルブルグ協奏曲」など、ほかにも数多くの曲を演奏した。また、51年、演劇部 「ハムレット」の公演の際、その伴奏を担当するなど幅広い活動を行なった。
55年近くになると、各大学にも独立したオーケストラが発足し始め、各大学は相互に協力し合い、この時特に、南山大学のメンバー、設備、楽譜、楽器はその活動の一翼を担った。そして53年、名古屋大学、岐阜大学、南山大学、名古屋市立大学等のオーケストラ部員によって構成された名古屋学生交響楽団が結成され、翌54年からは、中部日本放送の共催により開かれた。
アメリカを経てドイツに留学し、ライプツィヒ市の国立音楽院作曲理論科を卒業。帰朝後N響他に客演指揮として活躍した。
1933年には、自由学園全学生管弦楽団を創立し、指導した。
1946年には群馬フィルハーモニー交響楽団の創設に協力指導した。
作曲に於いては、「日本幻想曲」が1940年に文部大臣賞を受け、1946年には、毎日音楽コンクールで「人生交響曲」が、作曲部門の第1位に入賞した。
南山大学には、1950年音楽担当の教授として着任。その後、朝日ジュニア・オーケストラ名古屋本部の指導委員長として、青少年の音楽教育にも力を貸され、名古屋オーケストラ連盟の指揮者として、アマチュアによるベートーヴェンの「第9交響曲」を名古屋で演奏した。
II. 1955~65年
南山大学管弦楽団の歴史を語る上で、55年は、重要な年となった。53年に、それまで音楽部の一員として活動していた男声合唱団が「メイルクワイヤー」として発展的に独立したが、翌54年、管弦楽団は部員不足が深刻となり、名古屋学生交響楽団にその活路を見出していた状態であった。
55年、管弦楽団を再興することを目標に、多くの部員を新しく迎え入れ、同年夏には音楽部初の合宿を多治見の神言修道院にて行ない(参加者約30名)、オーケストラとしての形態を急速に整えていった。そして、この時期新たに結成された吹奏楽団(20人編成)と共に、再興された管弦楽団は9月の学内音楽発表会でデビューし、12月に催された第2回中部地区大学合同器楽祭において、ヴェルディ「アイーダ行進曲」を演奏し、努力賞を獲得した。
その後管弦楽団は、組織的、技術的にも充実し、レパートリーもベートーヴェン、シューベルトなどの交響曲をはじめ、チャイコフスキー、ワーグナーなどの作品へと広め、58年には、名古屋市公会堂で独立の演奏会を開くに至った。以来、名古屋市公会堂、愛知文化講堂、中区役所ホールなど学外において、年に一度の定期演奏会を催し、練習の成果を発表していった。学内においても、積極的に発表活動を行ない、さらに夏季合宿では、その地方の人々に、当時まだめずらしかった生のオーケストラを紹介するなど音楽の普及にも努め、伊勢湾台風の折には、避難所の慰問演奏にも進んで参加した。
63年の演奏会でとりあげたカバレフスキー「道化師」については、東京ソヴィエト大使館へ「道化師」に関する色々な事を問い合わせた時、偶然来日中のカバレフスキー氏より葉書をいただいたというエピソードが伝わっている。
60年代の演奏会のプログラムには、山本直忠教授の作品が多くとりあげられた。62年に、国民詩曲「日本幻想曲」(小津恒子のピアノ)、63年に聖楽劇「受難」への前奏曲、64年に「ピアノとオーケストラのためのサンクトゥス」(小林仁のピアノ)が演奏され、65年の追悼演奏会には、上述のうちの2曲が、直忠教授を偲んで演奏された。
また、小津恒子先生との共演も、57年のモーツァルト、58年のショパン、61年のベートーヴェン等、数多くなされた。
この時期は、我が管弦楽団が大きく飛躍した時期であった。これは、何よりも当時の部員の努力の結晶であり、山本直忠教授をはじめ多くの先生方の御指導によるものであった。山本教授は、音楽には、あくまで厳しい方であったが、それにもまして、我々に、こころの豊かな人間として生きることを強く教えて下さった。教授は、部員たちの「おやじ」であり、そう呼べる偉大さと親しさがあった。
このような教授が急逝されたのは65年5月9日のことであった。山本教授によって育成された管弦楽団は、この年12月、追悼演奏会を開き、さらに音楽芸術を通じて、より高い人格を目指すことが、教授に報いる唯一の道であることを改めて確認し、その決意を新たにした。
Ⅲ. 1966~74年
山本教授と一体となって、その歴史を歩んできた管弦楽団は、66年、新たな時代の幕開けの年を迎えた。
山本教授亡き袋、長坂源一郎先生 (58年以来、音楽部副部長として指導。)が、音楽部部長を引き受け、さらに、この年4月から、南山大学で指揮法などの講義を担当され、作曲・指揮活動の他に音楽団体の結成にも精力的に活動しておられた清田健一氏の御指導を仰ぐことになった、このことは、新しい第一歩を踏み出した団員の非常に心強い支えとなった。(清田氏は山本教授に作曲、指揮を師事された。)
66年11月、管弦楽団の行方を定める出発点となる演奏会が、我が団にとって縁のある名古屋市公会堂にて開かれた。清田健一氏の指揮によるドヴォルザーク交響曲第8番が、この時のメインプログラムとなり、またボッケリーニのチェロ協奏曲の独奏者は、管弦楽団創立当時のOBである田中希彦氏であった。(田中氏は、NHK名古屋放送管弦楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団を経て、スイス・ルツェルン市立歌劇場交響楽団で活躍された。2000年9月18日没 享年69)
この演奏会において、成功をおさめた管弦楽団は翌67年に、ブラームス交響曲第1番、68年には、シューマン交響曲第4番と、清田氏の指導のもとに益々意気盛んな活動を展開した。
しかし、毎年多くの卒業生を送り、新入生を迎えるというメンバーの変動は学生の活動にとって一つの宿命であり、68年ごろから新入部員が減少し、低弦(チェロ・コントラバス)を受けもつ部員が1人もいないような時期もあった。また、初めて楽器を手にする初心者が多い為、定演を中止し、実力を養ってから再開しようということが、論議された時期もあった、しかし、先輩の伝統を守り、管弦楽団を発展させるという信念のもと、オーケストラ生活を充実したものにするために、部員はベストを尽くし、演奏会を開いていった。
そして71年頃には、定期演奏会を年2回開こうとする気運が起こり、73年に実現するに至った。「この年の計画をたてるにあたり、初めの演奏会は、なんとしてでも成功させなければならず、無難なプログラムを組み、2回目は骨のあるプログラムで真価を問うことにしました。(山内龍一氏一当時主幹)」我が管弦楽団の歴史上、初めて前・後期2回にわたる定期演奏会は、前期にシューベルト「未完成」、ドヴォルザーク交響曲8番を、後期には、シベリウス交響曲第2番に取り組み、成功をおさめた。翌74年は、チャイコフスキー交響曲第5番という大曲に目標を絞り、定演を1回にしたが、その後再び、年に2回の定期演奏会を開くようになり、現在に至っている。
指揮を渡辺暁雄氏、理論を別宮貞雄氏、作曲を小倉朗氏に師事。
・1956年、名古屋室内楽団を結成、常任指揮者になる。
・1957年には名古屋放送管弦楽団、中部日本放送合唱団を指揮して放送を始めるなど多彩な活動を行った。
・1966年に南山指揮法の講師に就任。
・1955年、名古屋大学交響楽団の為に書いた「管弦楽のための小品」に続き、1972年には、氏作曲の「管弦楽のための小品I」が当楽団によって演奏された。
・2014年、2月にご逝去され、当楽団OB・OGにより清田健一先生を偲ぶ会が開催されました。
IV. 1975~95年 (常任指揮者と客演指揮者の時代)
74年、これまで新入部員といえば、大学に入学して初めて楽器を手にする者がほとんどであった我が団に、ヴァイオリン、ホルンなどの経験者が多数入部し、その中から翌年には、2年生の学生指揮、コンサートマスターが誕生した。
そして、25周年のこの年清田氏の指揮で、2度目のブラームス交響曲第1番が演奏された。
76年には、団内の音楽的高揚と団員の努力とで、初めて、客演指揮者として延原武春氏を迎えることができました。
77年には、40人を超える新入生が入部し、質、量ともに充実した、(この年のフランク交響曲ニ短調とプラームス第2番は最近の中でも最も充実した名演の一つであった)
78年は、我が団の黄金時代を築いた部員が卒業して1つの転機を迎えたが、彼らの熱意を受け継ぎ、ドヴォルザーク交響曲第6番、スメタナ「モルダウ、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、79年にはブルックナー交響曲第3番、三石清一氏を客演指揮者に招きサンサーンス交響曲第3番「オルガン付き」、等の大曲、難曲に挑んだ。
79年5月には、オーケストラの魅力を忘れられないOBによる演奏会が、66年以来一貫してご指導をしてくださった清田健一氏の指揮で行われた(曲目はレスピーギ「リュートのための古風な舞曲とアリア」、ヴィヴァルディ「ファゴット協奏曲」、モーツアルト交響曲第29番)
80年には、我が南山大学管弦楽団の生みの親であり、育ての親でもある山本直忠氏のご子息、山本直純氏を客演指揮者としてお迎えすることができ、30周年にふさわしい演奏会と成りました。リスト「レ・プレリュード」ブラームス交響曲第1番を指揮され、名古屋市民会館大ホール、満席 (2200席)の聴衆を熱狂させたのです。この時期、山本直純氏は「オーケストラはやってきた」 NHK大河ドラマ、と活躍されており、よくぞ客演指揮を引き受けて頂けたとおもいます。
その後も、82年には「炎のコバケン」こと世界的指揮者小林研一郎氏を招き、今回の第100回と同様、ベルリオーズ「幻想交響曲」を演奏しました。この回は、珍しくビゼー、サンサーンス、ベルリオーズとオールフランス作品のみの構成で初めての試みでした。一般的にフランス作品はソロなど演奏技術を要求されるので中々取り上げられないのですが団の演奏技術が上がった証であろう。
85年には、なんとウィーンフィル、コンサートマスターのライナー・キュッヒル氏が来団、コンマスの椅子に座り「新世界」の指導、そのヴァイオリンの音は団員に強烈なインパクトを与えたのです。
また同年第42回定期には、第100回と同様に松尾葉子氏をお招きして、ブラームス交響曲第2番、そして、久々の協奏曲を名古屋出身の大谷康子さんのヴァイオリンでブルッフ・ヴァイオリン協奏曲第1番を演奏しました。
その後、清田健一先生と交互に客演指揮者(十束尚宏氏、円光寺雅彦氏、等)をお招きしてしばらくドイツ作品が続きました。そして、年号も「平成」となり元年の1989年には、23年目第27回目となる清田健一氏の指揮で第50回定期演奏会を迎えることができたのです。曲はブラームス交響曲第1番であった。
翌年の90年には、大曲であるブルックナー中期の傑作といえる交響曲第6番を稲垣宏豊氏の指揮で、南山オケとして初めてとなるブルックナーに挑戦しました。また秋の第52回では、ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」とその年は大変意欲的なプログラムであった。
この二回のコンマスは今回OBとして演奏に参加している戸谷文彦氏である。
91年には、清田健一氏の還暦のお祝いとして、現役・OBが一体となり全南山大学管弦楽団を組織し、大垣市民合唱団フロイデンコール (90名)と、ブラームスの「ドイツレクイエム」を清田先生の指揮で熱演したのです。そして、95年の第61回定期演奏会でベートーベンの「運命」を最後に29年間清田健一先生にご指導頂いた常任指揮者時代は幕を閉じたのです。
毎年何人かが卒業していき、また何人かが入団するのを29年間繰り返してきたのを清田先生はひとり途切れることもなく見守っていただいたのです。清田先生が1本の糸となりOBOGが一つになれたのです。
そして、96年から年2回の定期演奏会のいずれも客演指揮者を招聘することで常に新しい風を取り入れ、より高いレベルを目指す時代に踏み出したのです。
V. 1996年から今にいたる (客演時代)
毎年2回招聘する客演指揮者はそれは多彩な顔ぶれで、「第1回~第100回定期演奏会のあゆみ」の一覧を見ていただくと興味深いであろう。
そして、98年には当団初のベートーベン交響曲第9番「合唱付」に挑戦したことです。当団では後にも先にもこの1回です。指揮は岩村 力氏を招聘しました。当団オケがこの大曲をこなすのには弦楽器、木管、金管の部員体制及び技術的に充実した年であった。
振り返ってみると、1976年第24回で最初の客演指揮者であった延原武春氏に始まり、本年の松尾葉子氏までで44名指揮者の方々が南山大学管弦楽団を指揮して頂いたのです。
その中でも2001年第74回で「幻想交響曲」を指揮された小松和彦氏(昨年3月没、享年65)、また、2004年第79回まだ無名の山田和樹氏を招聘、ベートーベン第5番「運命」を指揮されている。その5年後2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、その後急速に頭角を表し、現在スイスロマンド管弦楽団首席客演指揮者で活躍されている。東京芸大指揮科で松尾葉子氏に師事している。
奇しくも今回記念すべき第100回定期演奏会に松尾葉子氏の指揮、ベルリオーズ「幻想交響曲」と山本直忠先生作曲の「平和のための祈り」をお聴きいただくのは100回記念にふさわしい会となった。
“南山大学管弦楽団のあゆみ”と題して、その活動を振り返ってきたが、活動の一端にしか触れられず、多くに及ぶことは出来なかった。100回の歴史はその年々のメンバー及び多くの関係者の努力の積み重ねであり、僅か数枚の原稿では言い尽すことのできないものである。我が管弦楽団はこれからも、更に練習に励み、次の200回へ向けて新しい歴史を築いていくでしょう。