前OB代表 音楽部初代マネージャー高嶺昌 (54生)
(2014年第100回記念定期演奏会プログラムより)

オケ生みの親 山本直忠教授着任

  昭和25年(1950年) 時の初代学長A.パッヘ神父は、東京から山本直忠氏を招聘され文学部に音楽学科をも設けることを考えておられたらしい。
しかし、総合大学として社会の実務に直結する「経済学部」の設置が優先されて音楽学科の設置は見送りされた。
音楽の授業は、美術の太田三郎画伯と並んで一般教養科目として用意され、ピアノの小津但子助教授をはじめ、Pチャプリッキ神父の管楽器奏法や宮崎直一講師のヴァイオリンレッスンなど実技に接する機会が設けられ、課外活動としての音楽部には、いくつかの部門が設けられた。
昭和30年度に入って「管弦楽団」「吹奏楽団」「女声合唱」(メイルクワイヤーは前年の昭和29年に発展独立した)そして「鑑賞グループ」が常置されることとなった。

オケの初合宿は修道院で

当時の大学の入学式や卒業式に加えて開学記念などの式典奏楽は、古いSPレコードが用いられ、極めて音質の悪い楽曲が再現されていたものであった。
山本直忠教授と共に、管弦楽団常設を機に、式典音楽はオーケストラの生演奏としてはどうかとの考えが出されて練習に入ったものの、演奏の「まとまり」が未熟で何か方法を考えなくてはとの事態を前に「オケの合宿練習」が急務となった。
往時は学生が合宿できるような施設がなく、予算的にも負担の少ない「多治見修道院」に着目し、中央線での多治見詣でが始まった。
練習場は近くの学校の夏季休日期間中を借用することが可能となったが、肝心の宿泊施設の修道院内での寝泊まりが問題化してしまった。
 院長曰く「カトリック研究会のような宗教活動ならいざならず音楽の勉強では認められない」との強弁であった。在京の山本直忠教授からはの催促で困り果て、
とうとう最後に南山高校のJ.ポンセレット神父(元教区長)に直訴して了解をとりつける始末、許しが出た代わりには外出時間や消灯時間、男女の別棟での宿泊など厳しい規則を守ることが求められた。食事も全部自炊で、毎食カレー スばかりで部員の不評を招き、晴れの式典奏楽を終えた時には、ドッと疲れが出たものであった。

学外演奏会にダフ屋が出現

その頃の管弦楽団の定期演奏会は、殆ど近くの学園講堂 (五軒家町キャンパス内)で行われていたが、昭和33年(1958年) 秋の定期演奏会は初めての学外演奏会として名古屋市公会堂で開催することとなった。その頃の市内には他に大ホールといえる会場は皆無で、プロのオーケストラや海外からの演奏家も総て市公会堂で開かれていた頃のことである。

部員一同は張り切って印刷されたポスターを市内の電柱に張りつけたり、チラシを他の演奏会の入口で配布したりして頑張った。
おかげで当日は、かなりの聴衆を集めたのであったが、開催当日の入口で予期せぬ困ったことが起きた。
当日券売り場の担当者曰く「ダフ屋さんみたいな人が来て学生が売る入場券よりも安く売るので1枚も当日券が売れない」というのである。
私が現場へ行ってみると、正価の入場券を余分に持っている人々から安く買って希望者には正価より安く転売するやり方で文句のつけようがなく一同困り果てていると式服を着用した山本教授が寄ってこられて、「では私が様子を見てきましょう」と会場の入口まで出てこられた。
私も、どうされるかと心配して見守っていると、先生は黙ってジッと見ておられるだけなので今度はダフ屋の方が寄ってきて
「あの人は、どういう人なのか?」と聞くので
「今日指揮するえらい方だが、何かあれば警察に電話してもよい」と言っておられるというと
「それはヤバイなあー」と、ブツブツ言いながら、いずことなく引きあげていってしまった。
往時、プロのオーケストラならいざ知らず、アマチュアしかも学生のオケのコンサートに「ダフ屋」が出現したのは後にも先にも、前代未聞の出来事であった。